ここちね便り

HSPでエンパスのわたしが、心地よさを積み重ねていく日々。

ブログデザインを変更しました。


気持ち新たに。
ブログデザインを変更しました。

ブログ空間も、今の気分に合わせてアップデートしていきたいものです。

サブタイトルとして、
HSPでエンパスのわたしが、心地よさを積み重ねていく日々。
としました。

万人受けする記事は書けそうにないので(;^_^)
わたしはわたしでしかないのです。

感覚的なことを書きながら、気持ちを整理する、自分のためのブログになっていきそうです。
もし、共感する人がいたら、それはそれでうれしいなと思いながら。




自分を信じる.2018

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2018年がはじまりました。
今年のテーマは、「自分を信じる」です。
自分を信じる「自信」の1年にしていきたいです。

昨年を振り返ってみると、本当に癒しの一年だったなぁと思います。
無意識に引きずっていた傷や、気づかないふりをしてやり過ごしてきた傷にも、向き合うことになり、ただひたすら癒して癒して、感じ切って、ということをしてきました。
目に見えて、これをした、という成果のようなものはなく、自分で感じることだけがその結果です。
でも、誰に証明する必要があるわけでもないのだから、これでいいんだよね、と自分を認めながら・・・
まるで誰かに報告書でも提出しなくちゃいけないみたいに、いつも何か成果を出さなくては!という焦りみたいなのを抱えていて、ほとんど無自覚だったのを、自覚できるようになってきたら、ほんと自分がかわいそうになるくらい自分で自分をいじめていたなぁと今は思います。
誰かに認められるんじゃなくて、自分が自分を認める方が大事。
今年は、そういう感じがもっと増えていくかなぁと予想しています。
そういう感じ、というのは、自分の感覚を頼りに進んでいくということです。
だから、自分を信じることが大切なカギになっていくと思い、テーマにしています。

そもそも、これまでの生き方が、外の軸に傾きすぎていたのだと思います。
親がこう言うから。テレビでこう言ってたから。人生の先輩の意見や、本で読んだ経験談。すれ違う人たちの視線までも。
基準がいつも外側寄りにあり、「でも、わたしはこうだから!」と強くいけない自分がいました。
嫌われるのが怖い。
失敗するのが怖い。
そんな恐れがそうさせていたのだろうと思います。
エンパスでHSPであることもその傾向を強めていた。

それが一通り癒しに専念したおかげで、少しずつ、軸が自分の中心に戻ってきたのを感じ、これからは、自分のこの軸を中心に、大切にしていきたい、という気持ちが強くわいてきていました。2017年の終わりごろから。

こういうことって、子ども時代にできたらいいよね、と思うのです。
自分を信じて生きていく、って。
まぁ、わたしはまわり道したけど、そのまわり道自体も楽しかったし、意義深くて、いい経験だったので、すべてはこれでマルなのですが。

さぁ楽しい、わたしらしい一年にしましょう!

今年もよろしくお願いいたします。


海外ドラマ「ゴースト」で癒された。

海外ドラマの「ゴースト ~天国からのささやき~」にハマっていて、今日、ファイナルシーズンのラストを観終わりました!
5シーズンすべて観てしまったことに、自分でも驚きます。
一話45分だとして、いったい何時間DVDと過ごしたんだろう。
時間のムダじゃないかって、思わなくもなかったんですが、これを観ることは自分にとって大事なことだっていう感覚がどうしてもあって、その感覚に従ってきたのです。
この話の中にある、自分にとって大切なものにアンテナを張りながら。

死後の世界と愛がテーマのお話で、毎回、混乱している霊を霊能力のあるメリンダが手助けして光の先へ送るという話なんですが、メリンダはもちろん、それを支える家族や友人たちもすごく素敵で、愛にあふれています。
霊が光の先へ旅立てない理由が、心残りや罪悪感だというのも納得のいく話で、フィクションだけど、わたしの信じたいことがたくさん詰まったお話でした。
主役のメリンダには、自分の直感を信じることの大切さや、自分の信じる正しい道を貫く強さを教えてもらいました。女性としてのチャーミングさや美しさにも、毎回惚れ惚れしたし。
霊が心残りを解消して、家族や大切な人と離れて旅立っていくシーンには毎回涙を誘われました。
特に子どもの霊のときはすごく。
後悔しないよう精いっぱい生きようと思えたし、生きている時間を大事にしようとも思えた。
いっぱい泣いて、自分も癒されたと感じています。

この世界には愛があふれている。
自分を信じて進んでいい。
そんな勇気をもらえるドラマでした。
あ~癒された。

さて、もう冬休み。そして年末へと向かっていきますね。
2017年はレイキの学びに始まり、実践を重ねて、癒しの一年になりました。
来年2018年は、自分を信じる、「自信」の一年にしたいと思っています。

ただいまリビングの模様替え中。
新しい一年にふさわしいものを選びながら、整理整頓しています♪


人として。

先日、LGBTのセミナーで話を聞いてきました。
(LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの略称)
テレビや人づてに聞く話から、そういう人がいるということは知っていたけれど、話を聞いてみて、より知ることができました。

「知る」って大切。

印象的だったのは、
「男だから、女だから、じゃなくて、人としてとらえてくれたら。」とお話されていたこと。
とても心に響きました。

これって、最近わたしが意識していたこととリンクしてる。
「母親だから、妻だから、じゃなくて、人として」って意識しています。
そうでないと、軸がぶれてつらくなってくるから。

なんだろう、母親とか、役割名がついたとたん、「~べき」が増える気がして息苦しい。
きっと、常識とか、世の中の価値観とか、自分以外の思いや考えや歴史や、いろんなものをしょい込んでいるのが、その役割にはある気がします。
そうすると、本来の自分の部分が窮屈になってしまうのだと思う。

相手が子どもであれ、男性であれ、女性であれ、誰であっても、人と人としての関係が築けたら、相手にその役割を求めすぎず、居心地のいい関係でいられるのだと信じています。

人として、悪いことはしたくない。
人として、いいことをしたい。
人として、成長していきたい。

そのくらいが、シンプルで軽くいられるから好きな状態です。

でも昔からのくせで、ときどき、「~べき」に押しつぶされそうになるけど、そんなときは「人としてどうか?」という軸に戻ってくるよう心掛けています。


「書く」というセルフケア

「書くことをやめてはいけない」
ふとそういう思いがわきました。

最近、子どもに関連する用事で文章を書く機会があったんです。
それで仕方なくというか、用事を片づけたいので進めていたら、思いのほか心がすっと晴れてきました。

書きながら、気持ちが整理されていく気持ちよさ。
自分の中にあふれかえる情報をすっと沈めてくれる感じ。

それで、書くことをやめてはいけない、そう思ったわけです。

わたしの中の願いのひとつに、いい人でありたい、というものが強くあるので、こうしてブログなどを書くときには、とても慎重になってしまうところがあります。

誰かを傷つけはしないか。
それは正しいことなのか。
この記事は誰かの役にたてるのか。

そういったことを気にし始めると止まらなくて、時間がかかっていきます。
これは、HSPでエンパスである自分の特徴なのだと思います。

それで結局、何もしないのがラクだなと。
誰も傷つけず、自分も傷つかず、というラクな状態を保っていたのですが。
そうすると、どうやら自分の中にいろいろとたまってしまうみたいです。

誰かに話したり、日記に書いたり、というのも、ため込まないでいるためには役立っているようなんですが、こうしてブログに書いてオープンにするということにはそれとは違う解放感があるようです。
知らない誰かに読まれるかもしれないものとしてオープンにすることがカギのようです。
そうすると先に言ったように、時間がかかるのですが、そういう風に時間をかけて書くことが、そのまま自分自身の整理になっていて、かけた時間は無意味ではなく、むしろ時間をかける価値のあるものとして自分の中に残る。そんな感じです。

特に慣れない場所に出かけたり、刺激を多く受けた時ほど、それをすることでたくさん入ってきた情報を整理することが大事だと実感しています。
情報を整理するとは、自分にとって大切なものとそうでないものを分けて、大切なものだけ残す、ということです。
でも実際は、そういうときほど、あーもー疲れたーって何もする気がなくなっちゃうんですけど。

書くことも、自分のセルフケアというかメンテナンスとして続けていきたいと思っています。





HSPと片づけ・わたしの場合

さて、HSPであるわたしがどうして片づけが得意になったのか。
このまま考え続けてもこれ以上の答えは出てきそうにないので、とりあえず書いて先へ進んでいきたいと思います。

わたしはこれが関係あると思っているんです。

一度に多くの情報を吸収できる

これは、HSPの能力のひとつだと言われています。

例えばこの写真をみてください。
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食べながらipadで調べものでもしてラベルを作ろうといているのかな??
複数の目的のものが雑多に置かれた状態のテーブル。

次にこの写真をみてください。
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PCで調べものしながらメモを取る、またはアイディアを描き出すところかな?
今の目的に沿ったものだけが適切に配置されたテーブル。

この二つの違い、感じますか?
違いは感じない、どちらでも仕事がはかどる。そういう方は、環境の変化による影響を受けにくいのだと思います。

わたしの場合、自分を集中させようとするなら、後の写真のように、今必要なものが適切に配置されている状態に整えてから事を始めます。
そうでないと、とりかかっても途中でまわりにチラつくいろいろなものが気になりはじめ、あっちに手を出してみたり、こっちをやってみたり、と注意散漫、自分が何をしたかったのかわからなくなってしまうからです。
テスト前、妙に机まわりを整理したくなったのも、それと関係あるかもしれません。

一度集中モードに入ってしまえば、まわりがまったく気にならなくなることもあるにはあるのですが。

HSPは一度に多くの情報を吸収できる。
それは、ささいなことに気をとられてしまうという短所でもあり、細かい部分に気がつくことができるという長所でもあります。
ただ、嬉しいことであれ、嫌なことであれ、人より多くのことをキャッチするということは、つまり、それだけ自分の容量がすぐにいっぱいになってしまうということ。
だから、非HSPより、HSPは疲れやすい。
それはもう、体質として受け入れるしかないようです。


わたしが自分の置かれた環境を整えようと工夫しはじめたのは、小学生の頃でした。
まだ低学年の頃だったと記憶しています。
自分の部屋(当初はまだ、自分の机=自分のスペース)を自分にとって心地よくしたいと、あれこれ模様替えしたものです。
両親とも「もったいない」とよく言う人たちで、お菓子の空き箱や空き缶も「何かに使えるから」と物置にとっておく、使えるものを捨てるのはもったいない、という考えのもと育ちました。
そうすると、今の時代、ものがあふれてくるわけです。
両親は、整理整頓ができないわけではなく、むしろ得意な方だと思います。
だから、たくさんのものが所狭しと並べられている感じでした。
わたしは、それが嫌で(笑)
でも、当時は何が嫌なのか自分でもわからなかったのですが、今になって思えば、たくさんのものが無秩序にある(色が統一されているでもなく、持ち主の愛着や意図もなくという)状態が自分にはうるさく感じられていた、ということなんじゃないかと思います。
自分の部屋を与えられてからは、いろんなことを試しました。
小学生のできる範囲なんで限られますが、好きなポスターを貼ってみたり、段ボールに英字新聞を貼り付けてリメイクしてみたりとか。
だんだん、大きなタンスや机だって動かすようになっていって。
当時大好きだった「ティーンの部屋」という雑誌を毎号楽しみに愛読していて、それをみて真似たりとか。
自分だけの場所で、好きにできるということがうれしかった。
そうしていろいろやってみて、一人暮らしでさらに部屋というハコそのものも自分で選べるようになったあたりから、自分の心地いいポイントがはっきりしてきたように思います。

とはいえ、うまくそのポイントを説明できないんですが・・・
ひとつ言えるのは、
「自分セレクトである」ということです。
一度自分を通してある、というか。
承認済み、みたいな。
なんか、こう書くとすごい嫌な人ですね、わたし。
でも、そうなんですよ。自分の趣味であるにしろ、趣味でないにしろ、「はい、うちのものです」って言えるもの。そういうのでないものがあると、ちょっと落ち着かない気持ちになる。
最低限、あいさつ程度はしておきたい。
でも、たまに、するするーっと入ってくるものがありますよね?
例えば、おまけでついてきたものだったり、DMなんか。
そういうのは早めに対応したほうが、自分の心地よさにはつながる。
つくづくめんどくさい人なんですよ、わたし。
そういうのぜんぜん気にならない人からしたら、ほんとめんどくさいと思う。
ほかのHSPさんたちも、心地いい空間づくりには、それなりに労力を使うんじゃないかなーと思うんですが、どうでしょうかね。
やりかけのこととか、気になっていることとか、放置していると、すごくうるさくなってきます。
うるさいって、ほんとにギャーギャー聞こえるわけじゃなくて、頭の中のおしゃべりというか、自分が自分に早くやれーって言ってくるってことで。
だから、せっせか動いて片づけたりするわけです。
自分が気になってて、自分がざわざわして落ち着かないから、自分のために自分で動く。
それが片づけができる、得意になった大きな一因なんだと思うんですよ。

できるだけものを定位置にしまっておきたいのも、洗剤のパッケージや、出しっぱなしにするもののデザインにこだわったり、パッケージをはがしたりするのも、「情報を受け取る容量を少なくしよう」と、自分を守るために自然とやっていたことなんじゃないかな。
家ではリラックスして過ごしたいですから。
身も心も休ませるためには、それが必要だったということ。
自分自身のメンテナンスのために、やっていることなんだなぁ。

というわけで、あまりまとまらなかったけど・・・。
今の時点での、HSPと片づけの関連性についてのわたしなりの考え。

自分のためだからできているんじゃないかな。
これが家族のためだったり、人目を気にしてだったり、違う理由だったら、楽しくできていないかもしれないってことなんです。
だから、今、片づけに向き合えない人、苦手な人は、それでも毎日楽しく生きていられるってことに自信をもってください。
そして向き合えるようになったら、そのときには、片づけることで、心地いい空間とそれを上回るギフトを手にすることができるかもしれません。
その可能性を今はもってるってことでも、いいんじゃないかとわたしは思います。



どうやらわたしはHSP

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HSPという言葉、聞いたことがありますか?

世の中のおよそ5人に1人がHSP (Highly Sensitive Person:とても敏感な人)だといわれています。 HSPは、決して病気ではありません。HSPという概念は、アメリカの精神分析医で学者のエレイン・アーロンによって、1996年に提唱されたもので、人を男性と女性というように性別で2つに分けるように、とても敏感なタイプ(HSP)と、タフなタイプの2つに分けただけのことです(ちなみにこれは人間のみに当てはまる話ではありません。ほかの高等動物も同じです)。

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち
鈍感な世界に生きる 敏感な人たち p28より引用

なぜ急にこの話かというと、わたし自身がHSPであると思われるからです。


わたしはHSP?
セルフチェックでの診断なので、自身の分析・判断による、自称HSPと言ったほうがいいかもしれませんが、確かめようがありません。引用にもありますが、病気ではないので。ただ、HSPに関するいくつかの本やブログを読んでみて、その度に心が癒されていくということ、首を大きく振って同意したくなるということ、自分が感じているその感覚こそ、確かなことだと思います。
興味のある方は、本についているチェックリストや、アーロン博士のHPにもセルフテストがあるのでそちらをどうぞ。


HSPとの出会い
いつの頃からか、「敏感」「繊細」そんなキーワードが並ぶ本をよくみかけるようになりました。
その頃は、興味を持って中をのぞくことなく、表紙のイメージなどから、「あーそんな大変な人もいるんだなぁ」なんて人ごとのように思っていました。
2年くらい前、エンパスという言葉にはピンときて、それをきっかけとして、レイキを伝授してもらい、自己ヒーリングを続けてきました。
わたしはHSPかもしれない。本を読んでみたい。
そう思えるようになったのは、レイキで自分を癒し続けてきたからなんじゃないかと思います。


HSPと片づけ
それで、わざわざブログに書いてみたいと思ったのは、HSPであるということが、片づけや暮らし方にも大きく関係していると感じていて、それについて考えてみたいと思ったからです。
今までのところ得た情報の中には「HSPは片づけが苦手だ」とするものが主流のようで、じゃあわたしは何なんだ???というところから考え始めたわけです。
HSPだからといって、すべてがすべて当てはまるわけではないだろうし、HSPである度合いというか、割合にも個人差があるだろうから、たまたまわたしは片づけが得意なタイプのHSPだというだけかもしれない。HSPとひとくくりにしてしまうのは、男性はこう、女性はこう、と決めつけて型にはめてしまうほどばかげているとは思います。
それを前提としつつも、仮に、わたしが片づけが苦手なHSPだったのだとしたら、という目で振り返って人生を見つめなおしてみると、わたしは片づけが好きだったのは確かだけど、得意だったわけではないのかもしれない。与えられた環境の中でできるだけ自分らしくいるために身につけた後天的な特技なのかもしれない。とも思えてくるから不思議です。
今後、もう少し考えを深めてから、わかったことを書いていきたいと思っています。









お片付け相談室@conomi 開催しました。

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梅雨らしいしっとりした曇り空のもと、お片付け相談室@conomi を無事開催することができました。
こんな素敵な古民家の縁側のある和室で。

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久しぶりに、人前で片付けのことを話す。
そのことに、わくわくドキドキしながら、わたしは何を伝えたいんだろう?わたしはどうありたいんだろう?と問い続けることが、わたしなりの準備でした。

前は、”人が”何を知りたいのか聞きたいのかにフォーカスしていたけど、今は、”自分が”何を伝えたいのかを大事に考え始めている。
求められる自分になろうとするんじゃなくて、今の自分に正直にあろうとしている。
ひとりひとりが、そうあることが大事だと思うから。
自分がそうあることで、少なからず周りにも影響していくと思うから。

数年間活動しない間に、自分を愛することがだいぶできるようになったことを実感しました。
そして、そんなありのままの自分を応援してくれる人もいるということがわかった。
味方がいるって、素敵。

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前日にインスピレーションがわいて、即席ですがサイコロを作ってみました。
「何がでるかな♪」のサイコロトーク。
来てくれるメンバーを思い浮かべて、片づけや家のこと以外の話題も含めてみました。
思いのほか(?)みんなとても楽しんでくれて!
楽しい時間を過ごすことができました。

家のこと、家族のこと、子どものこと、教育のこと、学校のこと・・・
話題はどこまでも広がります。
それでいいんです。
今心にあることを出すことが、この日のわたしたちには必要でした。

みなさんありがとうございました!




自分の心に素直に語るとき

人との会話や関わりの中で、
あぁ、今日はいい時間だったなぁと、
そのあともずっといい余韻が続くことがあって。
その逆に、なんとなく、モヤモヤした気分になることもあって。
その違いはなんなのかなぁ、と思いふと気づいたことがありました。

人が、その人の心に素直に語るとき、それを聞く人にも、語る本人にも、癒しが起こっているのだと思います。
ハートが開いているからじゃないかと思います。



相手あっての会話なので、自分だけ開いているよりも、自分も相手も、その場にいる人たちが、開いていればいるほど、癒しも大きくなっているような感じです。

たまたま、対照的な時間を過ごしたことによって、はっきりとその違いがわかったわけなんですが。

例えば、自分をよく見せようとか、好かれようとか、何かの意図を混ぜて話すときや、悪口などの悪意のある発言をするときには、その人の本来持っている純粋な輝きは失われています。
その場をとりもつためだけの会話なんかもそう。
すると、癒しは起こりにくく、人を傷つけてしまうことだってある。

逆に、自分の感じたことをただ素直に表現するとき、キラキラと輝いて聞く人をも癒すパワーがそこにあるような気がするのです。
その話している内容が、たとえマイナス思考なことや、つらい気持ちであったとしても。

偽らない、ということ自体が、魂の喜びにつながっているんじゃないかな、とわたしは思います。


自分をよく見せたい。
ありのままの自分を見せるのは怖い。

そんな気持ちもあるけれど、そういう部分も含めて、素直に表現していけたら・・・
今よりもっと素敵な世界が展開していくのだと思います。

話してくれてありがとう。